「正しさ」とは、”まっすぐ立つこと”

聖書のいう「正しさ」とは何か?

唯一神に対して、まっすぐ立っていることが「正しさ」とされます。
これは一般的に、人が考える/感じる倫理的・道徳的な正しさとは異なります。

「神に向いて、神の御言葉を聴き、神に従って歩むこと」が、聖書における「正しい」ことです。
つまり「正しい」とは「神にまっすぐである」という状態です。

「正しくない」とは、責められるべき問題点を抱えているニュアンスを感じさせます。これは旧約聖書にも見られます。そこでは一貫して、”神の基準に照らして” 正しい/正しくないと論じられています。
ポイントは、①誰が、②何をもって正しいとするか、という点でしょう。

聖書によれば
 ①唯一神が
 ②聖書に定める規定(律法)に照らして正しいかどうか
ということです。
人間が正しさを判断することはできません。

人が正しさを振りかざすと、他者を糾弾する方向に向かいます。
「自分は正しい、お前は間違っている」
そして、自称”正しい”人間の振りかざす正義は、永続せずうまくいかないわけです。
それは、人間的には明らかに正しいだろうということも例外ではありません。

では、どうすればよいのか?神の基準に渡すことです。
ローマ12:19
『 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」』

みな罪人(的外れ)である人間が、正義を扱うことには無理がある。そのことが分かっているからこそ、イエス・キリストは律法の要約として愛することを教え説いたわけです。

  • 「神を愛し、自分と同じように、他人を愛するように」
  • 「自分のしてほしいように、他人にもしなさい」というのが旧約聖書におけるモーセの律法の要約


「正しさ」と感情的な良し悪しを一度分離してとらえると、心理的抵抗感がやわらぎ、受け止め方が変わります。フラットに、心安らかに、客観的に見ていきましょう。
神から外れていれば、すべて「的外れ」(ハマルティア=罪)であるということになります。

正しくあり続けることは、原罪を抱える人間の自力では難しいことです。
そこで、イエス・キリストによる身代わりの罪の贖いがなされ、さらに信じることで聖霊が与えられて神の力によって「正しい」状態にとどまることができるようになるというのが、新約聖書を含めた聖書の主題です。

重力に対して、まっすぐに立つとあまり疲れません。
崩れた姿勢でいると、その姿勢を維持することが難しくなります。

「正しさ」とは、”まっすぐ立つこと”と考えています。


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