好きと愛することの違いとは? 愛するためになにができるか?

■好きと愛することの違い
(毎日新聞 朝刊 2019/08/26 Dr.北村が語る現代思春期 より抜粋)
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ある中学三年生の回答。
「好きとは、相手に何かを求める気持ちが強い。
 愛するとは、自分のことよりも相手のことを真っ先に考える。」

ある大学生の回答。
「好きは、相手を一方的に思うこと。
 愛しているは思いやること。」

ある患者の回答。
大泣きする赤ちゃんをあやして見返りを求めない母性愛こそ「愛の典型だ」

産婦人科仲間とのやりとり。
 山道に、とてもかれんな花が咲いていた。
 ある人は、その花を摘んで持ち帰りたいと願った。自分の近くに置きたいのだ。
 別の人は、花の周囲の雑草を抜き取り、その花が一段と輝くよう気配りをした。
 好きが前者、愛しているが後者。
 その花はその場所でこそ輝いていられる。

聖書にも「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます」と書かれていると話しました
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■個人的感想

考えさせられる、いい記事だなと思いました。
好きになるも、愛することもどっちもいい。し、どっちも必要。
恋愛と結婚の関係にも当てはまる構図、とぼくは考えています。

好きか愛か --- 優等生的に考えるなら、愛するほうがいいよね、って結論。
愛するほうがしんどいけど、喜びも深いから。
「好き」はやがて飽きるか、よりDeepな"愛する"世界=自己犠牲的喜びの世界に入っていくかのどちらかに向かって平衡点に至るわけで。



■実際問題

「わー、愛するってすごーい。 んで、実際にどうやって愛するのさ?」ってのが問題。
日々の無意識のやりとりの中で、とっさにできるものなのか。

ふだん本を読みつつ、フムフム…と頭で「愛する…か、いいねーこれ」っていくら考えていても、
事件はいつだって現場で起きるもんで、日常生活では「愛がないなー」ということもしばしば。
「愛する?そんなん無理っしょ... orz」と落ち込むわけです。

愛なんて理想論!と片付けて終わるのも一案ですが、それはそれで、ちょっと諦めが入ってて、虚しい風が心を吹き抜ける感じがします。

記事の最後に取り上げられていた聖書の言葉。第1コリント13章、結婚式でよく引用される「愛の章」。
わたしは、この箇所を読むたびに愛のハイレベルさに圧倒されます。「え、どーやってできんの?これ」ってなる。

フィギュアスケートであれば「トウループ、サルコウ、ループ、ルッツ、フリップを連続ですべて四回転で飛ぶべし」のような。
ハーフパイプなら「ダブルコーク1440(DC14)を2回かまして...(以下略)」のような。
書きながら、よくわからなくなってますが...。

要は「愛するって、これ全部できる人、神でしょ!」という感想。


■God is Love.

そこで ふと思い出したのが、聖書の別の場所に書かれている「神は愛なり」。
神=愛。そこでハッと気がつきました。なるほど、神か!と。

人間には無理。まさに神の領域。
「んじゃ、人が愛するってのは無理ゲーってことですか、神様... orz」
またしても壁にぶつかった気分。



■愛するためにどうすればいいか:自分なりの答え

「クリスチャン生活は神様とのペアダンスのようなもの」なのではないか、が結論。
完全に自力でがんばるわけでもない、でもマルっと神さまよろしくたんのます、目を閉じてじっと寝てますから後はよろしく、でもなく。
ペアが互いに気持ちのベクトルを向け合うことで、別次元の両者がリンクして動くような。

言葉でも数式でも説明できない部分とのリンクがあってこそ、「愛する」という難易度AAAの行動も自然に喜びながらできる。
そんな風に捉えると、なんとなく希望が見えてきた、という個人的な意見でございます。
「自力だけは無理、でもあきらめない」
示される言葉と行動をふまえて、一緒に踏み出していく、

※ここらへんは何を信じるかによって意見が分かれますので、あくまで個人的な意見ということでご容赦ください。


■愛されているという実感

聖書の別の箇所に「わたしの目にあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」という言葉があります。
「あなた」の部分に、自分の下の名前を入れて読むとドキドキしますよ。究極の愛の告白。

愛されているという実感を感じ続けられたら、間違いなく人生は幸せだと思います。

すでに片方からの愛のベクトルは完全で、あとは人間側が気持ちを向けますか/向けませんかって選択権をもらっているという話。
イエス・キリストが十字架で血を流して一度死んで、復活して…ってのがその選択権付与のプロセスで、そんなイースターな話。
殺されちゃうけど不死身なスーパーヒーローが約束通り生まれてよかったね!を祝うクリスマスな話。

難しい話はさておき、「自分に向けられている、本当の意味で温かいまなざし」をもし感じられたら幸せじゃないでしょうか。
気づいて、日々意識しつつ、見つめ返して、平安と恵みを覚えながら、恐れなしで生きていくという道を歩めるようにしてくれるのも、また愛の力なのだと思った次第です。

聖書には「愛は恐れを締め出す」とあります。
不平・不満がある時は自分の存在に関する恐れがあります。
愛されることで安心できる。自分で自分の足や脇を触ってもくすぐったくないように、自分で自分が安心できる=愛されている状態を作るのはできないこと。
誰かに愛されて、安心をもらわないと生きていけない、というのは弱さでしょうか。人間らしさでしょうか。


■死の淵をながめてきて、今

ここ5年くらい、日本の死因No.1を専門にやっている病院の日本代表みたいな病院に通い・入院する中で、わたしは他の患者の方々を見てきました。
「死んだら一緒じゃん。金も名声も筋力も関係ないじゃん。ダメなときはダメ。あーなんて無力」。自分も死の淵をのぞいてきて、いったんこの世に戻されて、それをありがたいと思いつつ、どこへ向かったらよいのか色々模索している最中です。
(とかカッコいいこと書きながら、あの仕事どうしようとか、お腹空いたとか、日々の俗な悩みは尽きない!というのはナイショです)

ただ一つ実感を持って言えるのは、生きることは人間関係が一番大きなウェイトを占めているということです。
なんでもできる自由な時間、つかいきれないほどのお金、やりたいようにできる力...どれも魅力的ですが、あくまでサブ。
ともに祝い、ともに喜び、ときに悲しむ相手がいることが幸せだと思うし、生きている意味に近いのではと考えています。

■結論
 テーマ「人生は人間関係」
 結論「愛がすべて」
 理由「人生は時間も物質も有限、生きるには愛が必要」
 方法「シェアすること」


めずらしく(?)、真面目にグダグダと書きました。
文章が散らかってしまうのは、仕様です。

ここまでお読みいただきありがとうございます!(何%の方が、たどり着いたのだろう...)

#将来の自分向け #愛すること #愛と好きの違い

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